ハーバード大教授「崩壊したアイビーリーグを立て直せるのは学力テストだけ」

 
 

ハーバード大教授「崩壊したアイビーリーグを立て直せるのは学力テストだけ」note版はこちら(https://note.mu/notes/na0eec44b0e27/edit

前書き 

3月6日に、The Asahi Shinbun Globeで、「入試とエリート」という記事が上がりました。「人で入るか?点で入るか?〜日本の大学入試制度を改革する動きが始まった。点数だけをものさしとする従来のやり方から、米国流の『人物を見る』システムへの意向を目指す。」というのです。このような議論で必ず比較の対象となるのが、ハーバード大学でしょう。

そこで私は、アメリカのNew Republicというマガジンに掲載された、認知心理学者であるハーバード大学スティーブン・ピンカー教授の記事、「The Trouble With Harvard~The Ivy League is broken and only standardized tests can fix it~ (ハーバードの苦悩~崩壊したアイビーリーグを立て直せるのは学力テストだけ~)」を全文翻訳して紹介したいと思いました。

彼の記事が書かれた背景を少し説明すると、まずアメリカのエッセイイスト、ウィリアム・デレズィウィズ氏が、New Republic上で「Don’t Send Your Kid to the Ivy League~The nation’s top colleges are turning our kids into zombies~ (アイビーリーグはやめておけ〜国のトップ大学は学生をゾンビに仕立て上げている〜)」という記事を書き、アメリカのエリート教育のあり方、特にアイビーリーグを痛烈に批判しました。デレズィウィズ氏は、「エリート大学は経済格差を助長しているだけだし、公立大学でも同等以上の教育を受けられるんだからエリート大学に行く必要はない。」と言うのです。

その記事がスティーブン・ピンカー教授を憤慨させ、同じマガジン上で討論する展開となりました。(ピンカー教授が書いた後に、さらにデレズィウィズ氏が対抗した記事はこちら

スティーブン・ピンカー教授は、デレズィウィズ氏の主張の間違いを指摘した後、さらにハーバード大学の入試制度に対して疑問を呈します。彼ら二人の意見は、「東大生は勉強だけできて人間的バランスが取れていない」ことを理由に、試験だけを重視する日本のエリート大学入試システムを疑問視する話題に、やや関連する部分があるでしょう。

しかし、実は日本が一生懸命真似をしようとしているハーバード大学の内部にも、人で見る『包括的』入試に猛反対している教授たちがいるのを、ご存知でしょうか。残念ながら、スティーブン・ピンカー教授のような意見は(アイビーリーグの入試に関してはデレズィウィズ氏も批判している)、基本的にかなり難しい英語で割と長く書かれているため、日本の読者たちに届くことはほとんどないのです。もしくは、この類の人気のありそうな話題に水を差すような反対意見は、正論であろうとなかろうと、日本のメディアが意図的に(あるいは無意識に)無視している可能性もあります。

彼らのような知識人の意見が全く認知されないのは、とてももったいないと思いました。そこで今回は、スティーブン・ピンカー教授が書かれた記事を全翻訳しようと思いました。彼からの許可も得ています。

なお、私は翻訳のプロではないので、微妙な部分は全て勘で訳しましたが、なるべく彼の意図することが正確に伝わるように訳したつもりです。英語独特の比喩用言や固有名詞については、括弧内で(*)を付け加える形でリンクを埋め込むなど、説明を補足しておきました。彼自身の括弧つきの言葉は、普通の()で扱っています。荒削りな翻訳をご了承下さい。

より多くの日本人にも読まれ、より建設的な議論に発展すれば幸いです。

以下全翻訳 

ハーバードの苦悩~崩壊したアイビーリーグを立て直せるのは学力テストだけ~ スティーブン・ピンカー 

この雑誌で歴史上最も多く読まれている記事は、戦争、政治、偉大なアート作品についてではない。実は最も読まれている記事というのは、エリート大学への入試選抜方法であり、 特に私の勤めている、本題名で比喩的にも文字通りにも捧げられている、ハーバード大学についてである。

ウィリアム・デレズィウィズの記事、“アイビーリーグはやめておけ〜国のトップ大学は学生をゾンビに仕立て上げている〜”が癪に障るのは、何も驚くべきことではない。アイビー・リーグへの入学は、小数の若者を養い、財務的で儲かる、勝ち組・負け組の経済へ送り出すためのパイプラインのように、より一層思われているようだ。そして大学の気まぐれで不透明な入学基準が、10代の若者と両親(実際には、母親)を惨めにさせている、成績証明書の悪徳商売のような軍備競争をはじめさせしまった。

デレズィウィズは、エリート大学の馬鹿げた入試方法についてとても入れ込んで書いていて、 ヴィクトリア式の美しさと官僚的な闇に包まれた政策について議論を持ちかけた、という点では評価されるべきだろう。しかし残念なことに、彼の記事はその本当の病を診断し、また解決策となるにはお粗末である。独断的な主張には十分だが、客観的な分析の足らない彼の記事は、世俗的成功と分析的知力よりも自由奔放な真髄を賞賛する直解主義によって基づいている。そして彼の放つ取るに足らない意見は、巨大な鈍感な人達を予備室に蓄えておくと同時に、意図しない大量の損害を生んでいる。

まずは、デレズィウィズのエリート大学生への中傷についてから、話をしよう。彼は数え切れないほどの老人のように、今日の若者たちは無能で、未熟で、おとなしく、好奇心のないゾンビ、忠誠な奴隷、優秀な羊だ、と批評している。さらには、鮮やかな形で、彼は二度も「手に負えない、お高くとまったクソだ」と形容している。私は、彼の言うそのような学生たちと共に過ごしながら仕事をしてきたが、このような陰湿な罵倒の対象となるような学生は、全く認識にない。それどころか、デレズィウィズは、今日の18歳のアイビーリーグ生が過去のアイビーリーグ生、アイビーリーグ以外の学生、または国全体と比べてどれほど未熟だとか、やりたいことが決まっていないか、という事実を信じられるほどの理由を提示していない。

彼がアイビー生に押し付けている罪は、でっち上げである。彼は、皮肉っぽく次のように言い放っている。「彼らはすべてのクラスでAを取ろうと必死だ(デレズィウィズは彼自身のクラスでいい加減な課題を提出しろと学生にアドバイスするのであろうか?もしくは他の教授のクラスに対しても?)「彼らは選んだ各本の各ページを読まないし、それどころかレビューを読んだことのある本はいちいち読まない(告白:私も読まない)」「富、成功、名声のある経歴を追い求めている(ウィードを吸ったり、親のソファーでビデオゲームをしていた方がいいとでも?)」「『表面上』では、変節者アーティストたちと丸1日も過ごさないではないか!(二日過ごしたらなんだって言うんだ?)」

デレズィウィズがアイビー生たちに許す唯一の緩和的な部分といえば、彼らが中毒レベルの恐怖、不安、鬱、虚無感、孤独から怯えている、という点だろう。しかし、彼の引用した調査は、「1985年の60%以上の大学生が『自分の感情的な健康状態は平均以上だと思う』と回答したのに対して、今日の大学生では約半分しかそう答えていない」事を発見したにすぎない。むしろ、現代の学生の方が「レイクヲーベゴン誤謬(*自分は平均よりも優れていると思ってしまうバイアス)」に陥っている人が少ないことに、感銘を受けるべきではないか!さらに核心的な部分を突くと、アイビーリーグ生が、非アイビーリーグ生に比べてどれほど精神状態において劣っているかを、その調査によるデータは示してはいない。むしろ、デレズィウィズが理想化する公立大学や4年生の大学よりも、私立の大学生の方が感情における健康状態に対してより楽観的であるという、正反対の事を示している。

他に類を見ないアメリカの大学システムでの、多くのブランド力のない学術機関がセール品であるのは本当だ。50000人規模のキャンパスのオーナーズプログラム(*成績優秀者の為の特別課程)では、アイビーリーグに匹敵するような才能のある学生がある程度結果として集まるだろう。離れた地のリベラルアーツカレッジでは、非学術的な方向性の不足によって、学生をアイディアと本に没頭する文化を育むことができる。博士号の過剰供給は、才能のある科学者や人文学者を学術諸島のあらゆる基地におくり込んだ。そして、様々な領域でベストなプログラムは、より知名度の低い大学にあり、それらは素早く、斬新で知的な領域に拡大していく。アイビーリーグが、伝統や評判に囚われ、停滞しているうちに。

それでもなお、デレズィウィズがどこからともなく呪文を唱え始めた、非アイビーリーグ学生に対しての美徳(より興味深く、より好奇心旺盛で、よりオープンで、お高くとまってなく、競争的でない)についての全面的な発表には、根拠がない。体育バカ、マリファナ常習犯、ブルート・ブルータスカイ(*映画「アニマル・ハウス」に登場する、毎晩呑んだくれる大学サークルのリーダー的存在)、ガットコースハンター(*おそらく、動物の腸を狩るという野蛮な遊び)、コピペ常習犯、そしてコミュニケーション、マーケティング、スポーツマネジメントといった難しい専攻で、結局有名なのは、これら非アイビーリーグ大学なのだ。「俺が言えば、真実なんだ」調の議論の仕方で、さらにデレズィウィズは、アイビーリーグに比べて、無名の宗教大学の方が「考え方」を教えるのに「ずっといい仕事をしている」し、「より質の高い教育を、最高のやり方で提供している」 と決めつけている。さらに唖然とすることに、彼は「とにかくそうなんだ」論調(実際はほぼ確実に間違えているのだが)でしか基づかない主張を揚げて、アイビーリーグとその仲間たちを告発している。

しかし、最大の問題は、デレズィウィズの記事のタイトルにあるアドバイスが明らかなほど間違えているということだ。もし、あなたの子供が受験戦争を勝ち抜いてエリート大学から合格をもらったなら、その子には全く責任のない大学側の不合理性のために罰を与えるのではなく、ただ普通に送り出してあげれば良いじゃないか!経済学者のキャロライン・ホグズビーは、難関大学ほど、簡単な大学に比べて、20倍ものお金を学生教育、支援、設備に投資しているし、多くの寄付金のおかげでそのうちのほんの僅かな分しか学生側が負担していない、と見出している。これらのアドバンテージにより、大学市場において本当のセール商品なのはこのような難関大学なのだ。入学できるほどの能力はそのまま、難関大学の卒業生はそうでない大学の卒業生よりも、期間内に卒業できる割合が高いし、より理想に近い結婚相手を見つける傾向があり、社会人として一生涯において毎年20%以上も多く稼げるのだ。これらのアドバンテージは、学費やその他の費用による差を覆ってしまうだろう。もっとも、金銭面に関しても、必要に応じた寛容な金融援助により、難関大学の方がそうでない大学よりも安くなるのだが。アイビーリーグの入試ギャンブル自体は不合理かもしれないが、それを這い上がって勝ち取れる親や子供は、決して不合理なんかではない。

どんなエリート大学入試における再考も、大学教育のゴールとはなんなのかを知ることから始めなければいけない。この歌が言うように、どこに向かっているのかが分かっていないと、どんな道でもなんとなく辿り着いてしまう。 まとまりのない入試の一つの原因は、大学の中核であるリーダー達の中で、そのゴールについてまとまった考えを言える人がほとんどいないという事だ。デレズィウィズの不器用な試みは、その典型である。

デレズィウィズの言うように、「大学教育で最初にすべき事は、考え方を教える事だ」という主張に同意するのは簡単だが、もっと難しい事は、それが一体何を意味するのかを明らかにする事だ。デレズィウィズは、それが何を意味しないかは、知っている 。「職とビジネスの成功に必要な分析力と美辞麗句の技術」である。しかし、現実世界に対する綺麗事な侮辱は役に立たない。職において成功に必要なスキルとは、自分の考えを整理して他人に明快に伝えることや、複雑な問題をそれぞれの構成要素に分解することや、一般的な原理を具体的な場面に応用したり、因果関係を識別したり、ぶつかり合う価値観同士の中で折り合いをつけたり交渉したりすることだ。一体、どのようなお高くとまった象牙の塔であれば、このようなスキルが「考え方」としてみなされないのであろう?デレズィウィズの言う場所では、考え方を学ぶこととは「物事を離れた距離から熟考すること」を含むが、全くもって、その熟考が何なのか、どこに導いてくれるのかのヒントがまるで見えない。

これがデレズィウィズの第二のゴール、次のように詳しく説明している「自己を確立」する事、に繋がる。〜「脳と心の間、そして経験と心の間の伝達を確立する事によってのみ、真の個人=ユニークな魂になる事ができるのだ。」 おそらく私は、アメリカのエリート教育の失敗の象徴であるのかもしれないが、私の学生に自己の確立だとか、魂になる方法の教え方など全く知らない。そんなものは大学院でも教えられていないし、私が携わった何百もの教員採用や昇進において、候補者をそのような基準で評価した試しなど、一度もない。もし「自己の確立」が大学教育の目標であるならば、どれだけ長い間大学がその目標を達成するのに失敗してきたかについての、悔しいストーリーを長い間にわたって読むことになるだろう、と私は思う。

もう少し、明確になろう。私にとって、教養のある人とは、人間が生まれる前の130億年もの長い歴史について知っている人であり、私たちの体と脳を含む、この世の物理世界と生物世界を司る基本的な法則について知っているような人である。教養のある人なら、農業時代から現代までの人間の歴史の時間軸について把握しているだろう。教養のある人なら、多様な人間の文化や 、それぞれの文化に住む人々が彼らの世界を理解するために作り上げた、主要な信念や価値観について触れているだろう。教養のある人なら、歴史上の有力な情報源、例えば今後繰り返しおこすべきでない歴史上の大失策について、知っているべきだろう。教養のある人なら、民主政治と法の背景にある原理を知っているべきだろう。教養のある人なら、フィクションやアートの世界を、美の追求を促してくれる源として、また人間としての条件の原動力として、感謝することができるだろう。

これらの知識に加えて、高等教育は合理性の習慣を、第二の本質としてとらえるべきだ。教養のある人ならば、複雑なアイディアを簡潔な文やスピーチにして表現できるようでなければならない。教養のある人ならば、客観性のある知識を貴重な産物として感謝できるようでならねばならないし、入念に調査された事実を、迷信、噂、世間一般の通説と見分けられるようにならねばならない。教養のある人ならば、知らない人なら陥りやすいような誤謬やバイアスを回避しながら、論理的に推論し、統計的に物事を考えられるようにならねばならない。教養のある人ならば、魔法のようにではなく、因果的に考えるようにならなければいけないし、因果関係を、相関関係や偶然と混同しない事がどれほど難しいか、知っていなければならない。教養のある人ならば、人間の、特に自分自身の弱さについて強く気づいていなければいけないし、自分に同意しない人々がバカで悪魔なんかじゃないという事に、感謝しなければならない。同じく、教養のある人なら、脅迫や非難によってではなく、説得で人々の考えを変えようとすることの価値に、感謝しなければならない。

ある社会が、これらの能力とマインドセットを肥やせば肥やすほど、その社会は花開くと、私は信じている(あなたを説得できることも)。これらの能力は教えることができるという確信が、私を毎朝ベッドから引きずり降ろしているのだ。この基礎を4年間で備えるというのは、かなりの困難だ。これらのことを前提にして、もし彼らが自己の確立を目指したいというなら、彼ら自身の時間を使ってやってもらえればいい。

デレズィウィズの、中等教育後の質の高い教育とは、どんな国民であろうと、利益があるのなら公的に利用可能であるべきだという言い分には、私は心から賛同する。しかし同時に、学生が大学の中で様々な学問体系と重点において広がりを持たせるのには理由がある。人は、生まれつきの知能、抽象的な事象への趣好、識字率のある文化への精通度、人生においての優先順位、学習に関連した性格、などの点において違う。一度に全人口の大学生の年齢層に、脳科学や言語理論の授業を教えて、半分を楽しませるような事はできても、残りの半分の生徒を退屈させないようにするなど、私にはできない。また、学生は教員から学ぶのと同じくらい仲間から学び、アイディアを一緒に練ることのできる仲間から利益を得ることもできる。少なからず、活気に満ちた研究機関ならば、より頭の良い学生を受け入れ、既存の英知を問い直し、新しいエネルギーとイノベーションを注入し、そして古びていくメンバーと入れ替えていかなければならない。

これら全てが、難関大学が在るべき理由だ。本当の問いは、ではアイビーリーグがどれだけその任務を果たしているか?ということだ。三度の任期を経て、40年近くハーバードにいた後、私はその答えに常に驚かせられている。

多くのアメリカの大学の事を知る観察者のように、私は次のような話をかつて信じていた。昔ある時、ハーバード大学は、お坊っちゃまとケネディ御曹司がサッカーをし、合唱団体で歌い、最後の部活動で男の友情を交わしながらCの成績を取るような時代、一方で、ニューヨーク市立大学ではユダヤ人が左翼の雑誌を設立し、研究室で科学のノーベル賞を取る準備をしているような、金権政治の時代においての最終教育だった。そして60年代に入り、スプートニクが登場し、上流階級の人種差別と反ユダヤ主義の衰退に伴い、ハーバードは、実力主義 〜DNA組み換え、ウォールストリート街、シンプソンズ(*アメリカで人気のアニメ)、フェイスブック、ニューリパブリック誌がアメリカにとっての最高で最も輝かしい贈物であるような 主義〜 として、再補強しなくてはならなくなった。

この話は、少し真実を含んでいるようである。ホグズビーは、エリート大学への入学における学力の基準は、ここ十数年において上昇している、と報告している。しかし、固執した文化はなかなか途絶えず、オリバーバレット4世(*ハーバードを舞台にした有名な映画の主人公)の亡霊が、ハーバード大学パイプラインの隅々に未だに取り憑いているようである。

入学において、ハーバードは応募者の10%(5%だと言う人さえいる)を学業功績で選抜している、というのが通念だ。新米教員向けのオリエンテーションでは、私たちはこう告げられる。「ハーバードは世界における未来の学問ではなく、世界における未来のリーダーを鍛え上げる。」続けて、「したがって、ニューズウィークで20年間は私たちの学生についての記事を読むようでありたい(私の隣にいる女性を『ユナボマーのようにね』と呟かせた)」と。そして残りは、「包括的」に選抜される。例えば、体育活動の参加、芸術、慈善事業、社会活動、旅行、そして私たちは種族、寄付金、レガシー(*親がハーバード出身かどうか)(‘包括的’という葉の下ではなんでも隠れてしまうからだ)を推し測る(子供達の前ではしないが!)。

このような薄暗く狭き門をかいくぐった幸運な学生たちは、一心不乱に膨大な費用をつぎ込んで知識の探求を目指す学術機関に、身を置くことになる。貴重な原稿、あまり知られていない大冊、法外に高い学術雑誌の鼻を通すような、驚くような図書館システムがある。脳神経科学、再生医学、宇宙学、そして他のゾクゾクするような探求の国境であるエキゾチックな研究室がある。セレブティーチャーやアカデミックロックスターを含む、驚くほど幅広い範囲での分野において、博識な教授達がいる。このような知の天国と、世界で最も頭のいい学生のマッチングによる利益は、明らかである。ではなぜ、ファゴットを弾ける能力や、ラクロスができることが、入試選抜過程で1ミリでも考慮されなければいけないのか?

その答えは、皮肉にも、入試審査官達とデレズィウィズを奇妙な仲間に仕立て上げてしまう。ゾンビ、羊、退屈な奴を選んでしまう恐怖である。しかしアイビーリーグの入学方針の多くでは、この前提に従った場合の末路というのはあまり考えられていない。ジェローム・カラベルは、20世紀の前半では、包括的な入試方法は明らさまにユダヤ人の数を制限するために設計されていた、というかなり批判的な論文の跡を掘り出した。ロン・アンズは、デレズィウィズよりももっと辛辣な暴露の中で、同じようなことがアジア人にも起きているとされる、もっともらしい証拠を数々提示した。

同じくらいマズイことに、すべての学術機関の中で、なぜエリート大学は「頭のいい奴は単細胞でオタク」という非建設的なステレオタイプを蔓延させているのだろう?もし、ハーバードが大学院生、教員、学長を運動や音楽の能力で選んでいて、それでもなお彼らは私たちの学部生より浅はかでない、と誰かが提案したとしたら、爆笑の対象となるだろう。どんな場合であれ、そのステレオタイプはおそらく間違いである。カミラ・ベンボウデイビッド・ルビンスキは、SATのスコアのみで選ばれた早熟した10代達を追跡調査したところ、彼らが大人になると、学問、テクノロジー、医学、ビジネスだけでなく、その他にも小説、娯楽、詩、美術、彫刻、さらにはダンス、音楽、演劇のプロダクションにおいて、際立っていたという発見をした。ハーバードの新入生と比較するということは、ハーレム・グローブトロッターズとワシントン・ジェネラルズの試合のようなものだろう(*動画あり。おそらく、エキシビジョンのようなショーを意味している)。

慈善的な課外活動が、子供達に重要な道徳的教訓を教えるはずだという理屈については、どうだろう? 疑わしい理由は幾つかある。私の知人である卓越した仕事人が、 高校から課せられた「社会活動」のために息子を送迎するという頻発する責務のために、重要なフリーランスの仕事を断らざるを得なかったことがある。この出来事とは、息子をコミュニティーセンターへ 45分間かけて送り、息子が中古の服をチャリティーのために仕分けしている間に足を休ませ、さらに迎えに行く、ということだ。この時間は賢明に寄付に使われたが、実際にはアフリカの村一つでも予防接種したり、衣服を与えたり、救えたかもしれない収入を差し置いている。このような疑わしい、身に合わないごみ拾いのような強制労働からくる「教訓」とは、子供は母親の時間を何の価値もないかのように扱っても良いということであり、経済的な価値を破壊してまでも世界を良くすることができるということであり、ある行動の道徳的価値とは、利益を得ることよりも、明らかな犠牲によって推し量られる、ということである。

入学の選抜基準を知っているので、教育の宝が一度入学した後どのように扱われるか知ってしまった時、私は驚くべきではなかった。新しい学期に入って2、3週間すると、私はハーバードの年間人気教授に繰り返し投票されているにもかかわらず、半分空の教室に直面することになる。ビデオに録画されているわけでもないから、授業内容だけが試験に出る範囲を知る唯一の機会だというのに。これを個人的な問題と捉えてはいない。ハーバードの学生が群れをなして講義を離れるたび、親の50ドル札を燃やしているというのは常識だ。明らかに彼らは怠け者ではない。講義に出ない理由は、とんでもなく忙しいからである。セーフウェイ(*アメリカにあるスーパー)でレジ打ちをしてるわけでも、保育園へ子供を引き取りに行くようなこともしていないのだから、講義よりも大事なこととは一体なにをしているというのだ?答えは、そもそも彼らをハーバードに合格させてくれた、課外活動である。

これら課外活動の幾つかは、大学新聞に草稿するように、明らかに教育的なものもあるが、ほとんどはレクリエーション以外の何ものでもない。スポーツ、ダンス、即興演劇、音楽、音楽、音楽(多くの生徒はひとつ以上の演奏団体に所属している)。それらにかける義務は、残忍と言えるほど厳しいものだ。例えば一日に4時間、週に7日間、ボートを漕ぐ者もいるし、音楽団体も同じくらい忙しい場合もある。多くの生徒は私に、仲間意識、チームワーク、達成感こそが、これらのアクティビティをハーバードでできる最も重要な経験にしてくれているんだ、と言ってくる。しかし、なぜ同じような経験が、テールゲートステイト(*おそらく、アメフトシーズンによくやるパーティーのようなもの)、もしくは同じような観点でいえば、YMCA、それに、図書館、研究室、講義などをもっと活用する『バランスの悪い』生徒たちにもできないのか、理由は明らかではない。

アイビーリーグ学部生の反知性運動は、何も学生文化に固有のものではない。学問を単なる選択肢上の一つのリストとしか扱っていない入学方針によって、より促進されているのだ。学生は学部長やカウンセラーからの励ましの言葉を浴びさせられるが、「クラスをサボるな」はその励ましの言葉には含まれていないし、教授たちは共通して、生徒たちの楽しみを邪魔するなと、歯止めをかけられている。学部長からは、中間試験を大きなパーティーの日にスケジュールするな、 期末試験当日にインクが乾く前には教科書を売りやすくしろ、と言われたこともある。単位を落とさせるということは、死刑を宣告するようなものだ。必ずある、媚びへつらう過程への第一歩である。

学生が無条件で甘やかされているわけではない。中世を基準にした法の理事会により躾けられてるのかもしれないし、幼稚園児にふさわしいような優しい誓約にサインをするようプレッシャーをかけられているのかもしれないし、米国憲法修正第一項も通らないような表現規則により口止めされているのかもしれないし、物議を醸し出すような個人的なメールの表現は公ではためらっているのかもしれない。これら全てに共通すること(エリート教育は学生の自己を確立するのに役立っていると言う誤報)は、幼少期の最初にある「優先事項をまず片付けろ、それから遊べ」の方針に沿って、学生は立派な大人として扱われていないということだ。

私の第三の驚きは、また別の路線にいるハーバード生に起こることについてだ。非アイビーに比べて、アイビー生が20%以上儲けを上げている事実を説明しているかのように、彼らはコンサルティングや投資ファームに引っ張りだこだ。どうして、これらの熾烈な組織たちは、ビジネスについて少しも知らないボート漕ぎやバリトン歌手を、レジュメにヴェリタス (*ハーバード大学のロゴ)の文字が飾ってあるからといって雇うのか?オハイオ州立大学の金融専攻の一番の学生を雇った方が価値はあるんじゃないのか?何人かこの業界について詳しい人たちにこのことについて聞いてみたところ、巨大な市場失策のように思える現状について教えてくれた。彼らはとても率直に教えてくれた。

第一に、アイビーリーグの学位は、知能と自律の資格のようなものとして扱われている。数人のハーバード卒をチームに加えることは、平均の知能をあげ、問題解決をより効率的にするようだ。それ自体の方が、頭の良い人間ならどうせすぐに身につけてしまう専門的な知識よりも、価値のあることだと雇用者は感じている。

第二に、教育など、たかが知れているということだ。ビジネスの教授が次のように言うように。「問題に対して論理的な考え方を全く知らない者、相関関係から因果関係を導き出してしまう者、正当な予測性を無視してエピソードを証拠として使ってしまう者、そのような多くの頭の良い学生を見てきた。コンサルティングファームに進むほとんどの学部生は社会科学をひとつでも履修しているし、このような基本的な論理はそこで学べるのに。」

もっと不安なのが、アイビーリーグ生は名声のために使える、というのだ。たくさんのアイビー生をファームに雇っているというのは、ロレックスを身につけたり、ベントレーを運転しているようなものらしい。そして、何か間違いを犯しても、ケツは隠される。コンピューター業界で「IBMを買収したことでクビになったものは誰もいない」というように。

このような現状は、実力主義に従っているとでも言えるのであろうか?アイビーの入学試験方法は、10代の若者と母親たちを明らさまな余暇と美徳の儀式に強いている。勝者たちは、途方もないサマーキャンプに行くが、ほとんどはその周りにある素晴らしい学問や研究施設については無関心である。彼らは、卒業証書が25万ドル分のIQとマシュマロ実験(*子供がどれだけマシュマロを食べないで我慢できるか試した心理学実験)のような役割を果たすようだから、このような無関心を持てる余裕があるのだ。名声による自己暗示的なオーラにより、企業は、ブランド力に劣る大学にいる、よりふさわしい卒業生を見落としてしまうことになる。そしてそのジャックポットのサイズから見ると、家族ぐるみでこのような不合理性に挑むことは、合理的であるようだ。

このように無駄で不公平なシステムを修理するには、どうしたらいいだろう?少しだけ空想してみよう。種族によるバイアス、金持ちへの不当なアドバンテージ、無駄なシステムのゲームを抜きにして、エリート教育にふさわしい者を占う方法さえあれば。名声による効果に歪められていない候補者と仕事とをマッチングさせる方法さえあれば。すぐにでも集計できる、低コストで、客観的で、私たちが求める能力を予測してくれる事が繰り返し確認されている、ある一定のふるまい…..

そのようなことがわかる魔法のものさしを、もちろん私たちは持っているではないか。それは、標準学力テストである。私たちがこのような狂気にはまり、抜け出せない理由は、アメリカの有識者達が客観的な試験に対して正常に考えることができなくなったためであると思う。結局、もしアイビーリーグが生徒をテストの点数が高い順に入学させ、企業達が全大学の卒業生の点数(専門知識、技術、あとは適正能力)を高い順に雇ったとすれば、現在のシステムが抱える邪念は一夜にして消え去ってしまうだろう。我々が持つテストに対しての恐怖感がない他の産業化した国、もしくは、我が国に於いてもより高度なテクノロジーのファームにおいては、エリート学生をこのような方法で選抜している。エイドリアン・ウッドリッジこのページで20年も前から指摘しているように、テストに基づいた選考はかつて、リベラルと革新派にとって明るい方針であった。なぜなら、オリバー・バレット(裕福で馬鹿)よりもジェニー・キャビレリ(貧乏で頭が良い)をひいきすることで(*どちらも、「ある愛の詩」というアメリカの映画に出てくる登場人物)、家柄によるカースト制度を是正することができるからだ。

もし、様々な理由で大学が新入生のクラスを、不気味でスマートな学生だけで編成させたくないのなら、その構成を混ぜる単純な方法がある。アイビーリーグは、新入生クラスの一定の割合をテストの最も高い候補者の順に埋めて、残りは受かった応募者の中からくじ引きで選べば良いと、アンズは提案している。いろいろな微調整も、想像できるだろう。例えば、マイノリティーやレガシー生の数を公的に正当である範囲内で引き上げてみる試みだ。学校での成績や順位も計算に入れることができる。詳細は置いておいて、このようにシンプルで、透明性があって、客観的な方式の方が、10代の若者やその母親たちを痙攣させ、知られざる損害を隠蔽してしまうような神秘主義よりも劣る理由を、見つける方が難しい。

では、なぜこのようなクリエイティブな代案が、議論のテーブルにはもち出されていないのか?主要な理由は、スティーブン・ジェイ・グールドマルコルム・グラッド・ウェルのような人気ライター達が、左翼と平等主義を後押ししながら、読者達を適正テストに対して拒否反応が出るくらい毛嫌いさせてしまっているからだ。彼らは、テストは何も予測しない、もしくは予測したとしても限られた範囲内まで、もしくは予測したとしても、裕福な親なら子供にテスト対策教材を買い与えることで簡単に引き上げることができる、と主張している。

しかし、これらすべての仮説はすべて間違いであることが数字で証明されているのだ。もうすでに見たように、テストの点数は、届く限りのトップ層においても、知能的、実践的、芸術的な成功を幅広い範囲で予測している。完璧な予想ではないが、インタビューや主観的な印象による主観的な判断の方が遥かに劣っていることが証明されている。テスト対策教材も、強引な広告に関わらず、わずか7分の1の標準偏差分(ほとんどが数学力における増加)しか効果がない。

デレズィウィズの「SATは適正能力を測るはずなのに、本当に測っているのは、かなり正確に、実は親の収入なのだ」と言う宣言については、これはダメな社会科学と言うしかない。SATは親の収入と相関しているのであって(もっと適切に言えば、ステータスか経済的地位)、測っていることとは違う。この場合の相関とは、単純に頭の良い両親ほど、SATで高い点を取れる頭の良い子供を持ち、頭の良い両親ほど知的負荷のかかる高収入な仕事をしている、というだけなのだ。幸運なことに、SATは経済的地位をそこまで近く反映していない(−1から1の相関尺度で、たったの0.25くらいだけだ)。そしてこの事実は、ではSATは実際に何を測っているのか、という統計的な議論を展開させてくれる。答えは、「適正能力」だ。ポール・サケットと彼の同僚たちは、SATの点数は、他の要因を考慮しても、将来の大学での成績を予測しているし、一方で、両親の経済的地位については全く予測していない、というデータを提示している。マット・マグーは、さらに、青年期のテストの点数は、養子の親(養子に出された子供達の)ではなく、生みの親の経済的地位だけと関連している、というデータを提示している。つまり、これらの点数を追ってみると、共有された遺伝子を反映しているものであり、経済的な特権ではないことがわかる。

あなたの考える、適正テストの入試過程においての役割がどうであろうと、適正テストは存在しないとか、何も測っていないとみなす実力主義についての議論は、不十分である。デレズィウィズは、まるで富とアイビーの入学との相関関係が、私たちの社会が真実の実力主義を実現していない事の証拠のように、書いている。しかし彼の主張は、より裕福な生徒たちにはメリットがない場合のみ正しく、また、裕福さとは切り離された適正テストの存在なしに、どのようにして分かるというのだ?同じような理由により、 アイビーリーグの学生はより裕福な家庭から来ているという歴史上の傾向〜言ってしまえば、アイビー校が意図的に貧困層を追い払うために高額な基準を設けているという〜彼の陰謀論は口先だけの嘘である。ホグズビーは、そのような歴史上の傾向は、学生がもはや近い地域にある大学に応募することをしないで、国内全体の中から自分に似通った学生構成となる大学に応募しているせいだ、と示した。需要と供給の法則が、トップスクールの入学の学力基準を上昇させたのだ。親の収入との相関関係は、副産物なのかもしれない。

私たちが能力主義を一度も試したことがないとまず指摘した後、デレズィウィズは、実は試したことがあり、その代わりに次は「民主主義」を目指すべきだと結論づけている。彼にとっての民主主義とは、アイビーリーグの家族の収入の分布が、国全体としての分布と等しくなるような世界だという。しかし、富と適正能力との相関がゼロでない限り、そのゴールは不可能であるか、もしくは望ましくないであろう。

それでも、現在のシステムが不公平で有害である、という点においては彼は正しい。彼が代わりに言えたことは、エリート大学は実力主義とは程遠いことをしている、ということだ。なぜなら、彼らは適正テストに基づいて学生を選抜していないからだ。そしておそらく、それこそが私たちが次に目指してみるべきことだろう。